林崎甚助重信公肖像

日本一社林崎居合神社の林崎大明神
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居合道の祖 林崎甚助重信(はやしざき じんすけ しげのぶ) 公 生年 天文11年(1542年)?- 没年不詳。
戦国時代に出羽国楯山林崎(現・山形県村山市楯岡)に生まれ、居合(抜刀術)の始祖。
幼名は浅野民治丸。通称は甚助、姓は源、諱は重信。
幼少時、父親・浅野数馬を殺され、敵討ちの為、武道修行に精進。
林崎明神に参籠し祈念した所、神より居合の極意を伝授されたと言われています。
その後、見事敵討ちを果たし、諸国を廻国し、幾多の弟子を育てられました。
重信公が神託を得た林崎明神は、現在、山形県村山市楯岡の林崎居合神社として今に伝わっており、重信公は林崎大明神として奉られています。
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初代 林崎甚助重信 | 二代 田宮平兵衛業正(田宮流の祖)
関東の人。林崎重信に從い、抜刀之妙を得ると伝えられています。
「長柄刀をさし諸國兵法修行し、柄に八寸の徳、身腰にさんぢうの利、其外神妙祕術を傳へしより以後、長柄刀を皆人さし給へり、然に成(業)正が兵法第一の神妙奥義と云は、手に叶ひなばいかほども長きを用ひべし、勝事一寸ましと傳たり」 -北條早雲記- | 三代 長野無楽入道槿露(無楽流の祖) | 四代 百々軍兵衛光重 | 五代 蟻川正左衛門宗続 | 六代 万野団右衛門信定 | 七代 長谷川主税之助英信(長谷川英信流の祖)
林崎甚助重信以来の達人とされ、居合以外にも槍術や柔術など各種の武術に優れていました。
尾張徳川家に千石で仕え、居合を刃を上にして抜きつける打刀を使う技法に改めたとも伝えられています。 | 八代 荒井兵作信定 | 九代 林六太夫守政(大森六郎左衛門正光の大森流を加える)
以後、当流に正座での居合が中心の大森流が加えられることになりました。
| 十代 林安太郎政○(※言偏に羽) | 十一代 大黒元右衛門清勝 | 十二代 松吉八左衛門久盛 | 十三代 山川久蔵幸雄 | 十四代 坪内清助長順 | 十五代 下村茂市定政 | 十六代 島村右馬之亟義郷 | 十七代 細川善馬義昌 | 十八代 中山博道
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中山 博道 先生
石川県金沢市出身 明治6年2月11日生まれ。 17歳の時上京。明治24年、神道無念流第六代根岸信五郎師に入門し、本格的に剣道修行を始められました。
33歳の時、根岸師を後見として本郷に有信館道場を建て、剣道・居合・杖術の修行と幾多の門人を集めて指南に尽力されました。
また、修行の中で剣道と抜刀術の密接性を深く悟り、土佐居合の研鑚と修行を開始されました。 大正2年には根岸信五郎師より相伝を授り、神道無念流第七代を継承されました。
大正5年、44歳の時、板垣退助伯爵の知遇斡旋により、夢想神伝流第十七代 細川義昌師の門に入り、他見他言・他流混同を禁じ、神と師に誓い独慎、専ら修行に専念され、大正11年細川義昌師より相伝を授り、当流第十八代を継承されました。
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檀崎 友彰 先生
宮城県名取市出身 明治40年3月29日生まれ。
名は質郎。号を友彰と称されました。
力士を志して上京し、清瀬川関に入門。昭和12年春幕内筆頭に昇進。
昭和12年
1月 2日目の清水川に勝った取組は有名です。
昭和13年9月に中山博道先生の門人となり「有信舘」で修業されました。
昭和30年5月11月に本郷に「研修館道場」設立。
昭和39年の東京オリンピックでは日本武道館で模範演武を披露。
その後も居合道、杖道、剣道、相撲道に精通され、本郷の研修館道場館長として、多数の門人のご指導にあたられました。
平成 6年には財団法人
振武会と村山市から居合道無形文化財に指定されました。
生まれ故郷の名取市には「檀崎質郎友彰先生顕彰碑」が落成されております。
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